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【ベトナムの歴史】
中国支配からベトナム戦争まで
10 世紀中頃、ベトナム北部は中国の支配下にあり、ベトナム人の土豪が群雄割拠していました。ベトナムがおよそ 1000 年の中国支配から脱したのは 938 年のことです。
968 年にディン・ボ・リンが王位について完全独立を果たします。しかし、その後も中国の侵略は続きます。 980 年、レ・ホアンが宋軍を駆逐し、レ朝を創建。その後 1009 年にはリ・コン・ウアンがリ朝を興しました。リ朝は 1225 年まで続き、ベトナム初の長期政権となりました。
リ朝の外敵は北の中国と南のチャンパでした。リ朝は中国に対しては朝貢して安南国王の称号をもらい、覇権を認めさせる一方で、チャンパに対しては軍隊を送り ,1044 年には首都ヴィジャヤを攻略しました。
13 世紀にはベトナムにも元寇がありました。 1257 年、 1284 年、 1287 年の 3 度にわたり攻撃があり、いずれもベトナムが撃退しています。 2 度目の時は、日本と同様暴風雨が吹き荒れたとの記録も残っています。
1407 年から約 20 年間、中国明朝の支配下におかれたベトナムですが、 1428 年、レ・ロイが再び独立を勝ち取りました。レ・ロイはハノイに首都をおき、チャンパを完全に滅ぼし、中部ベトナムまで領土を広げることに成功はしたものの、レ朝の繁栄は長くは続きませんでした。
1802 年にグエン朝をたてたグエン・フック・アインは、みずからザー・ロン帝を名乗り、 2 代目のミン・マン帝は中央集権を図り、鎖国政策をとります。同時にキリスト教を迫害、しかしこれが結果的にフランスの干渉を招くことになりました。
1858 年、フランス皇帝ナポレオン 3 世はスペインと連合してフエに攻め入ります。フエを落としきれなかったナポレオン 3 世は、攻撃の矛先をサイゴンに変え、これを陥落。これによりグエン朝は 1862 年、フランスにメコンデルタ3省を割譲するという結果になります。
フランスは 1884 年に勃発した清仏戦争によってベトナムの宗主国である中国を完全に撃破、 1887 年にはベトナムにカンボジアとラオスの一部をあわせた地域を植民地化することに成功します。仏領インドシナ連邦の形成です。
フランスはベトナムの文化や伝統を奪い、圧制をしきます。こうした中で 1929 年代後半になると農民や労働者が組織化して民族運動を行う動きが出てきました。その中心人物がホー・チ・ミンです。彼は 1930 年にベトナム共産党を結成、活発な独立運動を展開しました。
1939 年、第二次世界大戦が勃発。フランスが 1940 年にドイツに降伏したため、ドイツと同盟を組んでいた日本はフランス領インドシナに進駐、 1945 年 3 月に軍事管理下におきました。
1945 年 8 月に日本がポツダム宣言を受諾すると、ホー・チ・ミンはベトナム民主共和国の独立を宣言。しかし旧支配国のフランスがこれを認めず第一次インドシナ戦争が勃発します。約 8 年間の戦闘の末、 1954 年にベトナム軍はディエン・ビエン・フーの戦いでフランス軍を打ち破り、事実上の勝利を収めました。
しかしフランスは強靭に南部の割譲を要求。ベトナムは北緯 17 度線で南北に割譲されてしまいます。さらに 2 年後に約束された統一選挙も行われず、ベトナム戦争へと突入していくこととなります。
<ベトナム戦争>
1954 年 7 月、ジュネーブ国際会議が開催、ここで締結されたジュネーブ協定によってベトナムは北緯 17 度線を軍事境界線として南北に分割されることになりました。唯一の望みは 2 年後に行われるはずの統一選挙、この選挙で統一の是非を問うことが協定によって約束されていました。
しかし、この約束は南の国家であるベトナム共和国の統一選挙拒否によっていとも簡単に反故にされました。
ベトナム共和国の首相であるゴ・ディン・ジェムはアメリカの軍事、経済援助を後ろ盾に急速にファシズム的な支配体制を強めていきます。これに対抗して弾圧された農民や仏教とは反ジェムの姿勢を打ち出し、 1960 年には南ベトナム民族解放戦線が誕生してベトナム戦争がはじまりました。
当時、アメリカは南ベトナムを「自由世界の砦」と位置付け、南ベトナムが負ければ東南アジア諸国から日本に至るまで共産主義に征服される、というドミノ理論を擁してベトナムへの介入を正当化します。
1965 年の北爆、 1968 年の解放戦線によるテト攻勢と戦状が激化するにつれ、アメリカはベトナムからの撤退を考えるようになります。
1973 年 1 月、即時停戦やアメリカ軍の撤退などの内容が盛り込まれたパリ和平協定が調印、アメリカの後ろ盾をなくしたベトナム共和国には力がなく、 1975 年 4 月 30 日、サイゴン陥落。ベトナム戦争は終結をむかえました。
1976 年 6 月、ベトナム社会主義共和国が建国され、悲願の南北統一が達成されました。しかし、待ち受けていたのはカンボジアや中国との紛争、そして経済破綻、難民流出などの難問でばかりでした。
<ドイ・モイ(開放政策)>
1986 年殻はじめられた改革、開放政策のことを「ドイ・モイ」といいます。
「ドイ」は“変える”、「モイ」は“新しい”の意味。
1975 年にベトナム戦争が終結し、南北統一を果たしたベトナムではベトナム社会主義共和国が成立しました。政府はベトナム戦争時から北ベトナムで行われていた社会主義システムで国家を運営しようと南部の社会主義化を急ぎます。しかしこれは南部の人々、華僑商人達の反発を招き、大量の難民が発生。また集団化によって農業総生産を向上させようとする政策は農民の不満をも招いてしまいます。さらに 1977 年から 78 年にかけては干ばつや水害などの天災にも見舞われました。 1978 年にはカンボジア侵攻とその後の中越戦争により国際的にも孤立。 1981 年にはソ連からの援助も打ち切られて危機的状況に陥りました。
このような苦境を打開し様として行われたのがドイ・モイ政策。政治、経済、社会などあらゆる分野に及ぶものですが、当初は経済改革に特に力を入れることになりました。市場経済の導入、個人の所有権の認可、独立採算制の導入、海外からの送金の自由化などが行われ、さらに西側からの資本や技術導入も受け入れられて外国からの投資も急増。これらの一連の開放政策は 1990 年に入って成果を見せはじめ、ベトナム経済は危機的状況から脱していきました。
経済の好転に伴い、その他の分野のドイ・モイも進みます。社会は自由な雰囲気にあふれ、言論統制も緩やかになりました。新聞には政治家の不正や汚職を糾弾する記事も数多く見られるようになりました。
また、欧米諸国や日本の文化も多数流入、ホーチミン市などは街を歩いていても社会主義体制を実感できないほどです。
1994 年にはアメリカがベトナムに対する経済封鎖を解除。これにより西側諸国による経済援助にも弾みがつきました。日本とベトナムとの関係も親密度を増しつつあります。
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