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ちょっと一息 … 日越でリレーコラム!


第十話 【ドクちゃん来日と日本ベトナム親善観光文化祭】

 2007年2月24日(土)、誕生日を翌日に控えた「グエン・ドク」氏と昨年結婚した妻のティエンさん、そして「ツーヅー病院」の関係者等と共に関西空港に到着し、3月8日まで日本に滞在する予定です。

 今回の来日の目的は、障害者支援団体の招待を受け、日本の5箇所で講演、交流会を行うのも一つの目的ですが、62年前の夏に(1945年)8月6日の広島と8月9日長崎に投下された原子爆弾で2度被爆した山口彊(やまぐち つとむ)氏と会うのも、もう一つの重要な目的としています。彼らは国も年齢も違いますが、戦争によってつらい経験をしたという共通の体験、そして二度と悲惨な戦争がおきないための平和への祈りとともに反核・反化学兵器のメッセージを共に発信するという共通の目的があります。

 3月6日には長崎入りして山口氏、長崎市長等と会う予定でいます。

 ドク氏は1981年2月25日にベトナム戦争時の枯葉剤の散布により、兄のベト氏と結合双生児としてこの世に生を受けました。ベトナム戦争が終結して30年以上経った現在でも、ベトナムでは枯葉剤の影響で障害を持った新生児が約5,000人生を受けています。そしてドク氏は仕事の合間の束の間の休日などを利用して、ベトナム各地を慰問しています。

 山口氏は原爆の後遺症により両耳が不自由なため、長い間被爆体験を伝える事ができなかったのですが、2006年春に戦争の記録映画として「二重被爆」に出演し、夏には国連で上映されました。 2007年3月に91歳の誕生日を迎えます。

 戦争が2度と行われないために、枯葉剤の影響を受けて生まれた子供たちの自立支援と研究費のために、そして失われた森林の再生に、「日本ベトナム親善観光文化祭」を支援しています。


2007/03/05 BY ベトナムのヨン様


第九話 【“祝”ドクちゃんの結婚@】

 このコラムをお読みになっている方で「ベトちゃんとドクちゃん」の名前を覚えている方はどれ位いるでしょうか。また彼らのこと、そして携わった方を覚えている方がどれ位いるのでしょうか。

 2006年12月16日に弟のドクちゃんが結婚すると知人から以前に聞き、彼らのことを少し忘れかけていたことに気付きました。彼等についての特集が12月15日テレビ朝日の「報道ステーション」で取り上げられる予定ということで、今日は彼らやベトナム戦争について簡単にまとめてみました。恥ずかしながら、ベトナム戦争当時のことはまったく知らない私ですが、彼らの名前を通してベトナム戦争があったこと知りました。ここ近年の経済成長、街の変貌ぶり、2007年1月11日にWTO正式加盟により、「戦争」と言う言葉は忘れられつつあります。(Aを予定しているので、そこでもう少し詳しくお話できればと思います)


 1960年から1975年までベトナムの独立と南北統一を巡り戦いが繰り広げられたベトナム戦争。緑豊かなベトナムのジャングルに米軍によって撒かれた大量の枯葉剤(約7,500万リットル)は戦争時だけではなく、戦争とは無縁になった今も枯葉剤の影響で苦しんでいる方が沢山います。(枯葉剤に含まれるダイオキシンが次世代、次々世代までにも影響。)

 ベトナム戦争終結約6年後の1981年2月25日に兄のグエン・ベト氏(Nguyen Viet)と弟のグエン・ドク氏(Nguyen Duc)は現在ではベトナムの高原都市ジャーライ省とコントム省に分かれたとある町で生まれました。骨盤から下は2人で共有しなくてはならない結合双生児(ジャム・ツインズ)として産まれました。

 1988年10月にベトナムにて日本人医師協力のもと、彼らの分離手術が行われ、成功。弟のドク氏は子供の頃からお世話になっている病院で活躍していますが、兄のベト氏は残念ながら同病院で寝たきりとの事です。


2006/12/14 BY ベトナムのヨン様


第八話 【越僑。逞しき人生の勝利者】

 先ごろ、ポーランドやドイツで垣間見たチャイニーズレストランで頑張るベトナム人の話を書いた。現在、海外で頑張るベトナム人は、殆どがボートピープルとして海を渡った人々と聞く。かつて、ベトナム人を数多く受け入れたオーストラリア。もてあまし気味の国土の開発と好ましい社会構成のためにベトナム人達に大きな期待をした。ベトナム人たちは、殆どが勤勉で努力家であることを否定しないが、寝食を忘れて頑張りすぎたり、自分達の文化(ベトナムの風俗習慣)を貫いたりで、移民の国の先人達に大きな反発もかわれてしまった。例えば、飲食店を持たずに屋台で頑張りとおし、財をなした人の中には数字に暗く、税法や各種法律に疎い人も多い。他方、このような人々をアンフェアだと厳しく糾弾する過激な白人系移民の先輩達も多い。

 サイゴン陥落から30年以上経った。そのときから、南側(南ベトナム)政府に特に関係の深い人々は、大いに未来を悲観し、一縷の望みをまとい、ボートピープルとなって沖の荒波に身をゆだねた。1200年も前の遣唐使ならありそうな話だが、20世紀に粗末な装備の船にすし詰めで乗り込み新天地を探すなどという航海は、清教徒の希望溢れる航海と違い冒険というほか無い。いつでも、命を落としそうな局面に襲われ続けるのだ。覚悟の航海とも言える。最近、日本にボートピープルとして渡り、日本国籍を取得した男性が、ベトナムで日本酒作りに挑み事業を採算に載せ、ベトナム女性と結婚し、子供も設け幸せそうにしている新聞記事を読んだ。

 南側の政府高官だった父を持つ彼は、父の下命でボートピープルとなり渡航した。兄とは、リスク分散を考え、別れて乗船。彼は、乗船時15歳の少年だったが、苦難の果てに3年後日本に上陸する。が、兄は海の藻屑と消えた。15歳の少年は、仕事と学業を両立させながら29歳で大学を卒業。やがて、ドイモイ政策による経済解放に沸騰するベトナムを訪れる。日本国籍を取得した彼には、なつかしい土地も投資対象として冷徹に品定めすべき物件になっていた。やがて、日本のカウンターパートに見出され、在ベトナム日本酒製造現地会社社長としての活躍の場を得たという。彼の思いの深さは、いかばかりか。

 積極的に海外からの資本を受け入れ合弁合作しているのは、地理的には南に位置している事案でも、本来、北側の出身者たちばかりである。南側出身の人々が、能力主義で重用されることは、まず無い。南側からの出身者で重用されるのは、ボートに身をゆだね冒険の果てに成功した「越僑」と呼ばれる強者のことである。ベトナムの経済的な基盤作りに貢献した外国資本は、徐々に役割を変えてゆくだろう。最も有用な投資家こそは、人生を拓くのに命がけも厭わなかった元ボートピープルの筋金入り運命の勝利者、「越僑」たちかもしれない。


2006/11/17 BY つっちー


第七話 「Da Vang」の一言で決まった日本留学

(Da Vang「ザー・ヴァン」とはベトナム語で返事の「ハイ」北部ではDa Vang「ザー・ヴァン」、南部ではDa「ザー」のみが主流)

来日のきっかけは、父の「日本に行って勉強してきなさい。」という一言でした。父もベトナム人ですが、かつて京都大学の大学院生として日本で学び、2度目の来日はAOTS「財団法人海外技術者研修協会」でベトナム人初のスタッフとしての勤務。父の来日時の経験等からの言葉だったのでしょうか、中学4年“15歳”の私はためらいも無く、軽い気持ちで「Da Vang」(はい)と返事をしました。(※ベトナムは小学校5年、中学4年制度)

 金銭面で苦労をする事のない意味でも、無知であった意味においても、来日前の僕はいわゆる「ベトナムのお坊ちゃま」でした。そしてその「お坊ちゃま」故の「Da Vang」から僕の発見と戸惑いの来日が始まりました。

 軽い気持ちの返事とは裏腹にサインする書類の多さに先ず戸惑い、知らず知らずのうちに手続きは進んでいたのですが、一番の戸惑いは、書類の内容も分からないままサインをしていたことでした。

 「Da Vang」と返事をしてから約3年の月日が経ち、18歳になって日本の大学で学ぶために、私の初来日となりました。来日前の日本へのイメージは「大きい国」、「発展著しい国」というただ漠然とした印象しかありませんでしたが、凄く楽しみにしていた事を覚えています。

 来日して初の驚きは、日本でも自転車やバイクを移動手段として利用していた事でした。ベトナムではバイクや自転車は皆が利用しているものなので、私にとって特別なものではありませんでしたが、来日するまで、日本人は皆「車」で移動していると思っていたため、かなりのショックを受けました。
(ベトナムの都市部では特に駐車スペースの不足でバイクや自転車の方が移動にも便利なため、初めてベトナムを訪れた方はバイクの多さに驚くといわれています)

 このショックはまだ「驚き」の「序曲」でしかありませんでした。来日前にしっかりと勉強したはずの日本語でしたが、相手の言っている事が全く聞き取れない上に、全く分からない状態で、父に助けを求めようにも日本からベトナムへの電話のかけ方も分からなければ、尋ねる事さえできない状態で大変でした。日本に少しでも早くなれるために始めたアルバイトでも、アルバイト先の社長に叱られているにもかかわらず、言っている事がわからないので、「ハイ」と「ありがとうございました」と僕は飛びっきりの笑顔で返事をしていました。今では懐かしい思い出ですが、あのときの社長はどのような気持ちで僕を叱っていたのでしょう...
人一倍前向きな私も、叱られているのに笑顔で返事をしていたことを知ったときには流石の私も落ち込みました。しかしショックはそれだけではありませんでした...
「日本人」=「親切」というイメージが来日して崩れてしまった事です。救急車が来る様な大事でも、日本人は皆「傍観者」となってしまうことです。当事者以外は皆「知らない振り」私自身もですが、きっとベトナム人としてでも考えられない事だったので、悲しかったことを覚えています。

 しかし、来日は辛い事だけではなく様々な勉強の機会となったのは確かな事です。前述したように、いわゆる「お坊ちゃま」だった私は、アルバイトというものを来日して初めて経験しました。野菜工場、洗い場、ファーストフードからコンビニエンスストアの工場等、使われる身から、指示を出す班長まで色々と経験しました。班長になるまでには過酷な経験もし、最初の3ヶ月で12kgも痩せてしまうほどでしたが、それ以上に「誠実に真剣に頑張れば、どんな事でも成せる」という大切な事を日本で学びました。そして、父はその事を私に教えたくて、日本への留学をさせたかったという事をベトナムに帰国して初めて知りました。「日本ありがとう」が私の素直な気持ちでした。そして今もその気持ちは続いています。

 日本で学んできた日本人の「勤勉さ」や「正確さ」をベトナムでも広げたく、今も頑張っていますが、まだ少し時間がかかりそうです...

 最近の日本の事情を見ていると、少し前の日本の「勤勉さ」「正確さ」や「優しさ」が失われてきているように思えるのが私の今悲しく思うところです。その話はまたいずれ...


2006/11/10 BY ベトナムのヨン様


第六話【がんばる越僑のこと】

 先ごろ、ポーランド・ドイツに所用で行ってきた。日本芸術祭のために展示物の搬入作業とデモンストレーション、記者会見、表敬訪問が主たる仕事だった。足掛け10日のうち、昼ごはんが食べられたのは機中以外では1度だけだった。午前3時とか午前5時起きなどは当たり前のように移動した。観光もままならないこんな時は、食事くらいしか楽しみがない。ポーランド料理は、ほとんどが肉料理でソースも濃厚。おいしいウオッカもビールもあるが胃がもたれてしまう。ドイツの国際都市ならば、寿司をはじめとする和食も本当においしい。しかし、ポーランドの寿司は、さすがに首都ワルシャワにあるにはあるが、ポーランド人が握る「海鮮オニギリ」状態にあり食指が動かない。そうなると馴染みのある中華料理で胃袋と妥協を図った。

 ポーランド第2の都市、ウッジ市日本芸術祭会場の国立博物館の正面にある中華料理屋に入ることにした。看板に「亜東」(ADONG)とある。東は、中国語でDONGと発音する。この店なら間違いあるまいと、連れの日本人2人と入った。ポーランド語は、スラブ語族系に属する。読むのも難解なら意味もわからない。スラブ系と見受けるうウェイターから英語メニューを借りて注文をすることにした。英語メニューのおかげで、食材も味付けも全部よくわかるので、早速、注文をとりまとめておこなった。

 スープや前菜、メインなどが順番をたがえて出てこようと胃袋の方は納得しているのだが、チャイニーズメニューとして出てきた料理は、すべてベトナム風。春巻きをたのむと、あのベトナム風揚げ春巻き。タレも甘辛いあの懐かしさ。スープもヌードルもたっぷり香菜と酸味の利いたスパイス。これは、まぎれもなく越風。同行の者から、「この中華は、南方系でしょうかね?」の問いに、「間違いありませんね」と応えておいた。よく、世界のどこにいってもチャイニーズレストランがあるといわれるが、そのとおりだとおもう。その実、ベトナム人がチャイニーズレストランの看板をかかげているのかもしれない。

 レストランの利点は、基本的に現金商売で粗利益が高いこと。ユダヤ人も華僑も印僑(インド系)も大抵は、海外に渡るとレストランから身を興すものが多い。レストランは、そこそこ稼げば、喰うに困らない。だが、仕込みに時間がかかり、掃除やあとかたづけと長時間労働が強いられる。勤勉なベトナム人であればこそ相応しいビジネスモデルかもしれない。ポーランドからの帰路は、ベルリンとフランクフルトを経由してきた。ベルリンに早朝についたので、世界一の規模の動物園をみようと出かけたが、あいにくあいておらず、暖をとるためチャイニーズレストランに入った。威勢が良いベトナム語が厨房から聞こえてきた。ナンプラーの聞いたフライドヌードルをたのみ、ドイツビールで流し込んだ。「コーガンレン(がんばって)」(越語)とチップを渡し、店を出た。


2006/11/01 BY つっちー


第五話【またまた、アオザイのこと。服飾に見る精神的系譜】

 先ごろ、アオザイのことに触れた。ベトナムでよく見かける白いアオザイの女学生達(白いアオザイは、女学生の制服)。よく自転車に乗ったり、農作業や天秤棒を担いだりと手伝いをしたりしているのに、白いアオザイを着ている女子学生の足元が、だれを見ても綺麗な理由はなぜだろうかと書いた。汚れない特殊な布地で作られているのか、しょっちゅう着替えているからなのか。本当に不思議だと思い書いたのだが、今日までわからずじまいである。

 さて、アオザイは、肩のところで組み紐細工のぼたんで留めるのが普通である。横にスリットが大きく入ることを考えても、源流はチャイナドレスにあると思われる。ベトナム語の「シンチャオ」(こんにちは)は、中国語の「新しい朝」が元になっているし、「カムオン」(ありがとう)は、中国人でも使わなくなった表現の「感恩」が元になっている。地名でも「ハノイ」が中国語の「河内」が元になっていたりで、中国の影響は、制度や食文化にまで実に色濃い。

 中国の古い歴史書にも、早くから出てくる「越」は、決して良いイメージで描かれることは無かった。いつの時代も都から遠く、異郷と見なされていた「越」は蛮族そのものである。三国志の時代、蜀(劉備玄徳・諸葛亮孔明)に制圧された中国の南方の「越」は、したたかではあるように書かれても、豊かな知性を感じさせるような記述はない。

 さて、アオザイは、チャイナドレスの影響が大きかろうと書いた。それでは、チャイナドレスは、中国古来のものか。否である。中国史上、漢民族以外の王朝が生まれたのが清朝である。清を興した「ヌルハチ」は中国東北部(現在の遼寧省を中心に)を基盤としていた。彼ら満州族は、「蒙古」(ムンク)や「東胡」(ツングース)の血を引き、遺伝的には日本人の先祖につながる。彼らが、北京に入り紫禁城(故宮)の主となったとき、彼らに恭順を表そうとして、騎馬民族風の上着をまとった。女性も上半身にそれを表した。肩のところで、組み紐を使ってぼたん留めするのは、実は、清朝風であり、その実、蒙古風ということになる。

 ベトナム人の打たれ強く勤勉な気質を見ていると、中国人の気質や精神的な文化を受け入れているとは思いにくい。アオザイのことはよくは知らないが、中国風を取り入れているかのように見せていて、実は漢民族に対抗した蒙古族など騎馬族などにあやかろうとしているのではないかとも思う。いずれにしても、真実は、いまだ伺いしれないが、農作業をしても、商売の手伝いをしても汚れたアオザイを見せない女学生達が多くいるのは、よごれない特殊な布でつくるのでもなくて、清くて強い気構えを見せているように思えてきた。


2006/10/25 BY つっちー



第四話【ビールの神様S先生のベトナム暮らし】

 私が、JICA(国際協力機構)専門家として派遣された時にパートナーとなられたS先生は、国内外でビールの神様と尊敬を集めていた。見識・技術も一流だったが、なによりも物事に真剣に取り組む姿勢や謙虚に学ぶ姿勢が、人を魅了したのだと思う。その先生が、人生で乾坤一擲の戦いを挑んだことがあった。

 S先生は、T帝国大学を恩賜の銀時計組で卒業して、研修の後、工場に配属された。S先生は、ミュンヘンに留学させてもらえるほどの学識や語学力を併せ持っていた。が、工場に配属されてからは、先輩や職長に怒鳴られ鍛えられて仕事を覚えた。よくQCサークルのことが、製造業の現場で話題になる。七つ道具と評し、グラフを用いた原因究明ツールの使い方も昨今指導するが、本質は人。3S運動、5S運動などと称し、躾(しつけ)、整理、整頓、清掃、始末を徹底的に指導することがある。有名大学卒業者には、この躾や整理整頓を馬鹿にする人間が多いと聞く。S先生によれば、正常に頭が働けば、自分の職場を日々観察する力がついて、導線や損失や利益の工場に直結する発見や発明をすることが出来るとのこと。また、日々の雑巾がけから機械の故障や効率の良いレアィアウトを思いつくようになるとも聞いた。エンジニアのS先生は、現場に生きた人である。

 Aビールは、その昔からの名門企業であり、解体される前は、Sビールと合同していた。その昔、Kビールとシェアを争い拮抗していた。ところが、S先生が代表取締役専務に就任して、技術畑の最高責任者となったころ、会社の調子もおかしくなった。売上が、大幅に下がり、財政が苦しくなると営業の士気が下がった。これが悪循環となり、研究開発費の大幅削減につながった。新製品をぶつけてもライバル企業とは、品質やイメージ面ではなされているという危機感もあった。しかし、一向に業績は改善しない。今にも沈みそうな会社だとして、メデイアからも夕陽ビールなどとも叩かれていた。なかなか勝てないライバルに、なんとか一矢報いたい。その思いだけで困難に立ち向かった。聴けば、あのSDビール。ビール酵母の兄弟が400くらいいると聞いた。おなじ、親兄弟をもつビール酵母であっても、生き物である以上、個性がある。400の子供たちの適正を見極め育て、SDビールは生まれ出でた。S先生は、Kビールなしに自己のキャリアもSDビールの登場もありえなかったと語っている。

 その後、Kビールのリタイアした技術者と一緒に仕事がしたいと自らも楽しみのための仕事として、ベトナムの“333“(バーバーバー)ビールの生産管理や品質管理の指導に当たることとした。ビールの中では、雑菌が発生することが困難。水に当たる心配もないので、亜熱帯などで食中毒が心配な時、ビールはお勧め。また、ビール粕は、調味料、飼料、薬にも使えて捨てるところがない。333が、美味しいのは、S先生の熱い思いが詰まっているからか。


2006/10/05 BY つっちー



第三話【最近、電車の中でよく見かける彼女のあたり役。キム】

 昨年の11月6日の日曜日。朝から夏の嵐のように、黒い積乱雲が華都の街に降りてきて、陽のひかりを終に眺めることも叶わなかった。このときの大雨、真夏でもなかなかお眼にかかれるものではなかった。雨は、翌日の朝まで降り続いた。天が、なりふりかまわず号泣していた。感じとしては、世界中のひとのバスタブや湯船を空からひっくり返したような。この日、本田美奈子は逝った。ドナーが、100万人にひとりというような確立でしか期待できない白血病だった。

 本田美奈子の歌唱力は定評があったが、舞台で小さな体躯を大きく震わせ、眼を泳がせながらシャウト、あるいは腕に力をこめて突き上げ、あるいは拡げて歌う様は、一瞬に帝劇の観衆を引き込む力があった。同じ作者がつくったレ・ミゼラブルとミス・サイゴン。どちらに出演しても、本田美奈子の歌といい、演技といいすばらしかったが、出世作だけにミス・サイゴンに分がありそう。ミュージカルの舞台で歌唱力豊かなポップス出身の歌姫はいたが、本田美奈子の歌うシーンは秀逸だったと思う。歌手というより表現者、役者というより表現者という感じがした。本田美奈子の歌うシーンに不覚にも落涙ということがしばしばあった。先ごろの好演で評価の高かったミス・サイゴンの主演は、松たかこ。高麗屋の遺伝子のお陰もあってか?演技力も歌唱力も申し分ない。彼女の血には、演じるために、舞台に立つために生まれてきた新化が溶け込んでいるのだ。でも、でも本田美奈子の方がいい。はまり役だったのだろう。人生を濃縮して演じ続けられた役だったのだろう。最も幸せな時間を舞台で過ごせた思いもあったのではなかろうか?

 ミス・サイゴンのキム。

 物語は、ベトナム戦争を象徴する本物のヘリコプターを舞台で使ったり、ストーリーもアメリカ兵の厭世的な思いや風俗、ベトナム人の優しげでいて、タフな内面が描かれていて、悲恋の物語が違和感なく享受できる。日本の反戦運動や学園闘争、社会福祉や教育論争まで一大エポックを生んだベトナム戦争。日本で最初の国際協力NGOネットワークは、この学園闘争が基点となった。

 日本の中学校高等学校では、カリキュラムが古代史から教えるようになっていて、卒業直前になっても近代・大戦後の歴史を体系的に学べない。近代史は、自習による補習によってしか学べない。暗記することや地名や人名を覚えるのが苦手な人に、ミス・サイゴンは最高の学びの機会を与えてくれることだろう。

 電車の中吊り、彼女の意思を継いで白血病とたたかう人への理解と協力を啓蒙するポスター。そこにある写真は、マイクを突き出し、得意げに歌う本田美奈子。目は、ステージのやや上を見ながら、いつものように泳がせている感じ。


2006/09/28 BY つっちー



第二話【ずっと不思議に思っていたこと】

 “グッド モーニング ヴェトナム”という秀逸な映画があった。主演のロビン・ウイリアムズがDJに扮し、Good Moh~rning Vie, Nam! とマイクに向かって毎朝シャウトして、兵士の士気を高めようとハイテンションで型破りなラジオ放送を行う映画。残酷なシーンは少なく、反戦的な映画の色もあまり感じられず、戦争の空しさがスクリーンいっぱいに立ちこめて見えた。

 先ごろ、ホーチミンシテイー(旧:サイゴン)に降り立った時、旧大統領官邸(現:統一講堂)のあたりで感じた活気は、映画の中のサイゴンと全く同じに感じられて、時制の感覚が狂ったような気さえした。真夏でなくとも、湿潤で重たく感じる空気は、シェ-クスピアでなくとも幻覚装置仕立てにしたくなる。

 さて、映画の状況設定。北の攻勢に打って出ようと、地中海のクレタ島の基地から、士気を高めようと連れてこられたロビン・ウイリアムズの規則無視の放送やマシンガントークは、実に心地良い。市街地に出てもトラブルメーカーのDJ氏だが。アオザイの似合うベトナム女性に恋いをする。口説こうとして、彼女の兄に「アメリカ兵は直ぐに口説こうとする」と言われ、気づきが生まれ、心境に変化が生まれる。ベトナム人の目線で、招かざる客のことを見つめるようにもなる。

 ところで、不思議に思っていたこととは、白いアオザイのことだ。映画の中でも、白いアオザイを着た女性はよく出てくる。テレビの情報番組や旅行番組でもベトナムは人気なので、これもまた、よく白いアオザイを着た女性が出てくる。白いアオザイを着た女性たちは、みな女学生。日本の女学生のセーラー服やブレザーのようなものである。

 シーンを前段まで戻す。DJ氏が思いを寄せる女性が、自分の実家のある農村に誘う。そこでも、当然、白いアオザイを着た女性が出てくる。映画の中でも、テレビ番組の中でも、白いアオザイを着ている人の足元や裾が汚れているのを見た事がないのだ。映画の中で、白いアオザイの女性が、てんびんを担いで道を行き交うシーンもあったかと思う。自転車に乗って通学する子、農作業を手伝う子。白いアオザイの子は、たくさん見かける。白いアオザイは、かわいらしく履くジーンズのように捲くり上げたり、ショートカットしてはかない。いつも長めの裾で綺麗なのだ。なぜ、汚れていないのだろう。絶えず、綺麗なものと履きかえるようにしているのだろうか?汚れても直ぐに綺麗になる素材で出来ているのだろうか?ホーチミンシテイーやハノイでも、アオザイを着ている女性はいたが、白いアオザイの女性を見つけることは出来なかった。ベトナムの青に薄墨を溶かしたような空に、白いアオザイはとても映える。一番美しい服だとも思う。それだけに、白いアオザイの不思議さに嵌ってしまうのだ。


2006/09/22 BY つっちー



第一話【武 清男 〜 ヴォツァンマン君のこと】

 VN1.(ベトナムNO.1)のプログラムで若い世代のボランテイア参加が増えて来ていると知り嬉しく思っている。私もボランテイア活動を盛んに行う独りだが、ふりかえってみると、動機付けは大学時代にあったように思える。

 私は、1958年生まれ、大学には1976年に入学した。高度経済成長のあと、石油ショックに為替ショック(対米ドルの日本円変動相場制移行)などの強烈な未曾有の経験をして、日本もアメリカからの子ども扱いから少しは自立したころだったように思える。
 朝鮮戦争の後、米国はベトナムの共産主義化を阻止しようと戦争に踏み切った。いつも犠牲になるのは、決まって弱い立場の人間だった。大学に入学したとき、学籍番号が近いベトナム人と親しくなった。彼は、いわゆるボートピープルだった。、家族の話はしなかったが、戦争は悲惨だと繰り返し話し、平和になったら帰国し、国家建設のために働くといっていた。第二外国語はフランス語を履習したが、ベトナム人のヴォツァマン君には世話になった。フランスの植民地だっただけに、試験やリポート作りで援けられた。他方、商学科に入学した彼の苦悩は、簿記学や会計学、原価計算論、管理会計学、財務諸表論などだった。特に計算が苦手のようだった。数学と同じで、正解はひとつと言うのが普通である。原価計算論や管理会計学になると、高校物理学の授業のように応用計算や計算式の組み合わせなどの柔軟な思考力があると、圧倒的に有利なのだが、彼には神様が味方しなかったようだった。

 試験の前には、一緒に泊まりこんで勉強した。彼は、ベトナム料理を作ってくれたが、今ほど香菜がポピュラーでなかったので、韮やパセリなどを代わりに使った。振り返り思うと、初めての味だったので、不思議な味でも疑問を持たずにいたが、今、口にしたら飲み込めないかもしれない。何れにしても、会計学系の入り口で、外国人に手ほどきしたことに違いなく、良い経験をしたことに違いない。その後、私は大学院に進学し、特殊な会計学、例えば共産圏の会計処理や財政学などを進んで学んだ。大学院を出て10年、その共産圏で教壇や工場の財務部門の職場に立っていた。正しくは、旧共産圏である。民主化を踏み出した国々の国有企業を民営化したり、転業させたりするプロジェクトにJICA国際協力事業団〜現:国際協力機構から専門家派遣されていた。ヴォツァンマン君は、大学卒業後、アメリカに飛び立って行った。もともと旧サイゴン市民(現:ホーチミンシティ−)、アメリカには親しみがあったのかもしれない。見送りに行ったが、その後、連絡も来なくなった。先ごろ、ホーチミンシティーを訪れた。トランジットの数時間の束の間だった。中央郵便局に立ち寄り、ホーチミン氏の肖像画を眺めながら、彼がフランスに留学し、祖国の有り様に憤って立ったことを思い出した。その場でヴォ氏の健やかな人生を祈った。


2006/09/13 BY つっちー


 
 
 
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